華氏9.11のマイケル・ムーア監督最新作、映画「SiCKOhttp://sicko.gyao.jp/を見てきました。無保険なため傷口を自分で縫う男性というインパクトのあるシーンからコミカルに描写しつつも深刻なアメリカの医療・保険制度の問題点が描かれた映画でした。今のところはアメリカほど極端でないまでも日本の医療・保険制度は確実にそっち向かってるなぁという感じがしましてなかなか身につまされる内容でした。(国公立大学の事実上の私学化や保育園、老人福祉の公から民間への闇雲な切り替えなど医療制度以外の面ではすでにかなりアメリカ化は進行しているわけですしね。)
このようなことが進行する背景として企業が利潤追求に邁進するなかで額面上利益を上げるが企業の提供するサービス自身の内容が雇用者の扱いともども劣化し、それを糊塗するために上げた利益をつぎ込んで政治力を駆使するというパターンは日本でも昨今よく見られるだけに本当に他所事ではないです。これはもう結局企業は何のために存在するのかという問題ですね。
ところで、企業は利潤を追求するものだと、条件を深く吟味することなく企業の利己的な行動を無条件で正当化する文脈でさも当然といった風に言われることがあります。が、私はそれに非常な違和感を覚えます。それは工学的な機械装置の例で言えば:
エンジンは燃料を燃やすために存在している。
…と言われたような違和感です。もちろんエンジンは動力を得ることを目的として人為的に設計された装置であり、燃料を燃やすこと自身が目的な筈はありません。燃料は必要に応じて仕方なく燃やされ(消費され)るものです。もちろん資源を有効に利用するために効率の良いエンジンが求められていますが、それはあくまでも動力を得るという第一の目的をつつがなく行うことが大前提である筈です。(元来利潤という言葉にはこのように目的あっての効率という観点があると思います。しかし、企業活動を擁護する文脈ではそのあたりが忘れられているように思うのです。 )
このことを企業について言うなら、企業とは社会から求められたサービスを提供することを目的に人為的に設計された社会的な「装置」であり、利潤の追求とは求められたサービスを提供する上での消費エネルギーを減らす努力ということであるはずです。当然、いくら燃費が向上したといわれても出力であるサービスが劣化するのは本末転倒でしょう。即ちSiCKOで出てくる保険会社のように、あるいは昨今話題となった品質を偽装する食品会社、安全性を軽視するメーカー、手を抜くメンテナンス会社などのように見かけ上の「利潤」のために顧客向けのサービスが直接劣化するのは明らかに論外です。(そもそもそれでは効率が向上しているとはいえません。)
さらにサービスの劣化についていえば、それは直接的に起こるとは限りません。例えばアンフェアな雇用や待遇により人材の扱いをおろそかにすれば、必然的にアウトプットであるサービス品質は低下します。これは燃費向上の軽量化で材料をケチりすぎて故障してしまい結局安定した稼動ができなくなり出力が落ちてしまうことに喩えられます。手段を選ばず効率を無理やり搾り出せばいいというものではないのです。
SiCKOの例でも保険会社側で加入拒否、治療費支出の拒否査定や支払い拒否にかかわった何人かの労働者たちはどうも反社会的な行為の自覚からあまり楽しくは仕事をしていなかったようです。 そもそも生物学的に見れば当然のことですが、人間は労働するために生きているのではないし、義務感で生きているわけでもないです。そのためその種の強制力を振りかざされて嫌々(SiCKOの例の保険会社関係者に見るようにいくらノルマで追い立てられ高給を餌にされてもやはり反社会的とわかっている行為は嫌な物なのでしょう。)仕事しても効率があがることはありえません。逆に仕事になんらかの精神的な価値(誇りや楽しみ、達成感といったものを)見出したときには強制されなくても、時として多少シンドくてさえも努力してしまうわけです。
つまりサービスを提供することを目的とした「装置」である企業はまず第一にサービスの提供とその品質の向上を目指すべきだと言えると思うのです。企業規模の拡大や利潤の追求はその大前提を満足したうえでの2次的な目標であるべきではないかということです。そしてそのサービス品質の向上は従業員を脅して追い立てても十分には達成できないであろうことです。
以下余談:
時として仕事の価値が金銭価値に直結するヒトもいるでしょうが案外とそういうヒトは多くないように個人的には感じています。特にマットウな仕事をしたと思われる人々の間ではそう感じられます。 そうなる理由はまっとうな仕事というのは金銭的な価値に直結するものではないからかも知れません。金銭というのは資源配分と強い結びつきがありますが、それなりにいい仕事を遂行するのに必要な資源というものがあるとしても資源を投じれば投じるほどよくなるとは限らないという意味で、いい仕事が資源配分量と=ではないということなのでしょう。
このようなことが進行する背景として企業が利潤追求に邁進するなかで額面上利益を上げるが企業の提供するサービス自身の内容が雇用者の扱いともども劣化し、それを糊塗するために上げた利益をつぎ込んで政治力を駆使するというパターンは日本でも昨今よく見られるだけに本当に他所事ではないです。これはもう結局企業は何のために存在するのかという問題ですね。
ところで、企業は利潤を追求するものだと、条件を深く吟味することなく企業の利己的な行動を無条件で正当化する文脈でさも当然といった風に言われることがあります。が、私はそれに非常な違和感を覚えます。それは工学的な機械装置の例で言えば:
エンジンは燃料を燃やすために存在している。
…と言われたような違和感です。もちろんエンジンは動力を得ることを目的として人為的に設計された装置であり、燃料を燃やすこと自身が目的な筈はありません。燃料は必要に応じて仕方なく燃やされ(消費され)るものです。もちろん資源を有効に利用するために効率の良いエンジンが求められていますが、それはあくまでも動力を得るという第一の目的をつつがなく行うことが大前提である筈です。(元来利潤という言葉にはこのように目的あっての効率という観点があると思います。しかし、企業活動を擁護する文脈ではそのあたりが忘れられているように思うのです。 )
このことを企業について言うなら、企業とは社会から求められたサービスを提供することを目的に人為的に設計された社会的な「装置」であり、利潤の追求とは求められたサービスを提供する上での消費エネルギーを減らす努力ということであるはずです。当然、いくら燃費が向上したといわれても出力であるサービスが劣化するのは本末転倒でしょう。即ちSiCKOで出てくる保険会社のように、あるいは昨今話題となった品質を偽装する食品会社、安全性を軽視するメーカー、手を抜くメンテナンス会社などのように見かけ上の「利潤」のために顧客向けのサービスが直接劣化するのは明らかに論外です。(そもそもそれでは効率が向上しているとはいえません。)
さらにサービスの劣化についていえば、それは直接的に起こるとは限りません。例えばアンフェアな雇用や待遇により人材の扱いをおろそかにすれば、必然的にアウトプットであるサービス品質は低下します。これは燃費向上の軽量化で材料をケチりすぎて故障してしまい結局安定した稼動ができなくなり出力が落ちてしまうことに喩えられます。手段を選ばず効率を無理やり搾り出せばいいというものではないのです。
SiCKOの例でも保険会社側で加入拒否、治療費支出の拒否査定や支払い拒否にかかわった何人かの労働者たちはどうも反社会的な行為の自覚からあまり楽しくは仕事をしていなかったようです。 そもそも生物学的に見れば当然のことですが、人間は労働するために生きているのではないし、義務感で生きているわけでもないです。そのためその種の強制力を振りかざされて嫌々(SiCKOの例の保険会社関係者に見るようにいくらノルマで追い立てられ高給を餌にされてもやはり反社会的とわかっている行為は嫌な物なのでしょう。)仕事しても効率があがることはありえません。逆に仕事になんらかの精神的な価値(誇りや楽しみ、達成感といったものを)見出したときには強制されなくても、時として多少シンドくてさえも努力してしまうわけです。
つまりサービスを提供することを目的とした「装置」である企業はまず第一にサービスの提供とその品質の向上を目指すべきだと言えると思うのです。企業規模の拡大や利潤の追求はその大前提を満足したうえでの2次的な目標であるべきではないかということです。そしてそのサービス品質の向上は従業員を脅して追い立てても十分には達成できないであろうことです。
以下余談:
時として仕事の価値が金銭価値に直結するヒトもいるでしょうが案外とそういうヒトは多くないように個人的には感じています。特にマットウな仕事をしたと思われる人々の間ではそう感じられます。 そうなる理由はまっとうな仕事というのは金銭的な価値に直結するものではないからかも知れません。金銭というのは資源配分と強い結びつきがありますが、それなりにいい仕事を遂行するのに必要な資源というものがあるとしても資源を投じれば投じるほどよくなるとは限らないという意味で、いい仕事が資源配分量と=ではないということなのでしょう。
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