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2025/02/09 14:22 |
メモ:共謀罪
他の大手紙では何故かあまり報じられないのだが、
東京新聞が地道に警察等の現場から共謀罪の危険と無用さを追っている:

『共謀』の概念既に拡大 - 相談なしでも摘発 (5月24日 特報)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060524/mng_____tokuho__000.shtml

サウンドデモなぜ摘発 (5月22日 特報)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060522/mng_____tokuho__000.shtml

刑減免より犯罪組織が怖い - 共謀罪 刑事が反対する理由 (5月18日 特報)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060518/mng_____tokuho__000.shtml

共謀罪、私はこう考える - 『飲み屋営業妨害法案』だ (5月10日 特報)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060510/mng_____tokuho__000.shtml

『共謀罪』 与党修正案を検証する (5月2日 特報)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060502/mng_____tokuho__000.shtml
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2006/05/24 13:28 | Comments(0) | TrackBack() | 空論
選挙とは
国会議員など選挙で選ばれる人々の資質がしばしば問題になる。

しかし選挙制度が保証するのは被選挙権のある立候補者中で票数の多い人が当選するということだけ。つまりこの制度は候補者に対して犯罪などを犯して公民権が停止されていない、特に選挙でルール違反をしていないと推定されるという程度の縛りがあるだけで、後は単純に支持者が多いかどうかを調べている特殊なアンケートというだけである。それ以上の資質について直接的には殆ど何も保証していない。

人のさまざまな考え方をn次元のベクトルであらわすという考え方がある。ここでnは自然数(例えば:0,1,2,3,4,...)。

ベクトルというのは数字の組であって、(1,-2.0,1.5)などというものは3次元のベクトルの例だ。「向きと距離を持つ量」として3次元や2次元のベクトルについては高校の数学や物理で習った人も少なくないはずだ。

おさらいするとベクトルには定数倍(方向はそのままで各成分を定数倍する)という演算があり、一方を定数倍(0倍を除く)すれば一致する2本のベクトルは平行であると考えられる(つまり方向そのままで定数倍、ただし負数倍されたときは逆向きになる)。加算(各成分をそれぞれ足す、ベクトルの合成とも言う)、減算(各成分をそれぞれ引く、-1倍したベクトルの加算に等しい)という演算が定義されている。

元々ベクトルは向きと距離を持つ量である速度や相対的な位置関係を表すために考案されたもので、n次元空間とn次元ベクトルには自然な対応関係がある。例えば、ある原点を定めるとn次元空間の各点と原点を始点とするn次元のベクトルは一対一に対応する。これは身近な3次元空間の例で考えれば、三次元空間のある位置(原点)を基準点として向きと距離が(位置ベクトル)定まればある位置が特定できるということを言い表している。
そして、そのようにn次元空間の点に対応するベクトルを特に位置ベクトルと呼ぶ。
また速度は一定時間当たりの位置の変化だから、各成分の時間当たりの変化を考えることで、ベクトルは速度を表現することも出来る。

細かい話:このとき長さ1で互いに直行するn本ベクトルを選べば任意のベクトルはそれっらを適宜定数倍して足し合わせたものと一致する。特にこれらの長さ1で互いに直行するベクトル群として、ベクトルの各成分が足し合わせたときの定数倍の定数にそれぞれ一致するようなベクトル群を選び、その方向に沿って座標軸を定めれば、いわゆる点の座標(デカルト座標、直交座標)と位置ベクトルの成分(()内の数字の並び)が実際に一致するようになる。

他にもベクトルには色々な演算が定義されていて、それらは対応するn次元空間を考えると意義が分かりやすい。絶対値(ベクトルの各成分を自乗したものを合計して平方根をとる)を計算することはベクトルの長さを求めることに対応し、2つの位置ベクトルの差の絶対値を求めることは2点の距離を求めることと対応する。内積(2本のベクトルの各成分を掛け合わせて合計する)という演算の結果は2本のベクトルの長さ及びそれらのなす角度と深い関係があり、特に長さが1であるような2本のベクトルの内積は、それらのベクトルのなす角度をtとすればcos(t)となることが知られている。
さらに射影という演算がある。ベクトルvとベクトルwについてvからwへの射影というのはwに平行でvに最も近いベクトルを求める演算で、射影でできたベクトルxとするとy=v-xで求まるベクトルyはwに直行する。これは身近な3次元空間でならばyの方向からさす日の光によってvがwに平行な直線上に影xを落とすとイメージすると解りやすい。

ここでは、人の考え方のさまざまな対立軸として考えられるものを全て考えてその軸の数より十分大きい数をnと考える。するとそれら全ての対立軸毎に各人の賛成・反対の強さを数字で表せば、ある人の考え方はベクトルと1対1に対応付けられる。以下ではこれを「考え方ベクトル」と呼ぶことにする。このとき考え方ベクトルの差(ベクトルの減算の結果)は考え方の差をあらわし、考え方の差の絶対値は考え方の隔たり(距離)をあらわすだろう。関係者全員の考え方ベクトルを足したものは関係者の「総意」を表すだろう。また考え方ベクトルの時間的変化を考えれば考え方の軌跡のようなものを考えることも出来るだろう。

以上のような準備をしたうえで、まずアンケートについて考える。アンケートは幾つかの対立軸を設定して考え方ベクトルのその軸への射影をとるものだ。互いに干渉しない独立した設問(ある設問への回答の結果が他の設問への回答に影響しない)がj個あるならば設定された軸j本でj次元の空間内のベクトルへ考え方を射影したものになる。例えばもし考え方が3次元しかない場合を考えると2個の独立した設問があったら
2次元平面内のあるベクトルへの射影がアンケート結果になる。ある人の考え方はもちろんアンケート結果と一致しないが、アンケートが作るj次元空間内では最もその人の考え方に近いものになる。アンケートはそれらを集計することで集団の考え方の分布を測定する。

ここからアンケートの設問の設定、つまり対立軸の設定が重要な問題になる、アンケートへ写像された考え方ベクトルはもとの考え方ベクトルに一番近くはあるがアンケートへ写像された考え方ベクトルと元の考え方ベクトルは違うものであるので、軸の設定の仕方によっては各人の実態とはかけ離れたものになりうる。例えば設定された軸が考え方ベクトルに対して殆ど直行に近い、つまりその人の関心が設問の対象に関して薄い場合などはそうだ。特に軸を一個しか設定しないという2分法で、賛成(+1)か反対(-1)かの極度に制限された設問で集計すると非常に極端な結果を生み出す場合があり得る(先年の衆院選挙の郵政賛成/反対の軸設定などはよい例だろう。事前の調査ではそれほど重要な関心事ではなかった事例に対して2分法で軸を設定し賛成反対を問う形になり、結果は皆が実感していると思われる極端な結果を生んだ。)。

ここで注意しておく必要のあるもう一つ重要な点はアンケートという手法は設定された対立軸に対して、集団が持つ統計的な偏りを測定しているだけであって、結果として示された多数派の考え方の正しさ・適切さは全く保証していないということだ。例えば、ある問題の解決法に対してアンケートを集計したとき、その問題をよく知っている人々にアンケートをとった場合はそれなりにもっともな解決法が多数を占める可能性は高いが、その問題をよく知らない人々にアンケートをとった際の結果はデタラメなものになる可能性が高い。つまり世論調査のようなアンケートは意見の偏り具合を示しはするが、そこで多数を占めた意見が適切な意見かどうかは殆ど全く保証はしない。それは適切な意見が見出されるような形で世論が形成されているかどうかに掛かっている。ここでは世論形成について深入りはしないが、知識の探索や伝播・共有に関する性質から、偏見にとらわれない自由な試行、自由で活発な情報交換と情報公開による情報の共有や個々人の判断能力を高める(教育と余暇が重要な要素になる)ことが問題解決にとって適切な世論形成には重要であるということは言えるだろう。

選挙は一種のアンケートだからそれらの性質を受け継ぐが、若干特殊なアンケートでもある。それは各対立軸に対する選択が直接集計されず、候補者という形で間接的に選択された結果が集計されることだ。候補者にはそれぞれ考え方ベクトルがあり、公約という形で彼らが設定した対立軸に沿ってその考え方ベクトルを射影したものや、過去の考え方ベクトルの軌跡を表すための経歴などが提示され、それを手がかりに有権者は候補者を選び、その結果が集計され、もっとも多数の支持を得たものから順に定員を満たすまで候補者が選ばれる。(集計方法にはいろいろバリエーションはあるし、候補者ではなくさらに間接的に政党が選ばれる選挙形態もある。)

なぜこのように間接的な形式で世論を集計しようとするのだろうか?世論の集計をするにせよ、直接アンケートを取るほうがその時点での社会の意見の動向は的確に知ることが出来る筈だ。

問題はコストにある。頻繁にアンケートを取ることはそれなりに手間と時間がかかるというのが選挙のような特殊な形態のアンケートが必要になる理由だ。近年情報通信を処理する機器の技術は向上し、アンケートを取るコストは劇的に下がってはいるが、人々が、社会的問題への解決策を集計するために設定された数多くの対立軸について頻々とその考えを射影し表明することはやはりそれなりに時間と手間が掛かる。そこでアンケート答える代理を統計的に選び出す手段が選挙ということになる。自分の代わりに答えてくれる人、つまり自分に一番近い考えを持つ人を選ぶということになる。人は自分に近い考えの人に好意を抱きやすいという社会学的な調査結果もあるので、必ずしも意識して考えを吟味しないで好意に基づいてなされた選択もそういう性質を持つと考えてよいだろう。

つまり国会議員の資質とはまさに代表(純粋に統計的な意味であってなんらの名誉や特権もない)として世論の集計手段の一部として機能できるかどうかに掛かっている。その機能を果たせる限りにおいては特別賢かったり有能である必要性はない。この観点からは、賄賂の受託や不正な献金、密室での謀議や密約のように選挙の際の選択をゆがめる可能性のある行為は大いに問題となるし、腕力や資金力、権謀術数に長けていることなどしばしば政治家の能力として上げられる能力はむしろ有権者の選択を惑わすものであり有害であろう。

以上から、当然あまり賢くない考え方ベクトルを持つ国民がそれなりの数を占めるならば、あまり賢くない政治家も代表の一部として選ばれることになんら不自然はない。そして世論が結論を出しかねている問題について政治家が魔法のように解決を見出してくれることもない。結局のところ選挙という仕組みが保証するのはただ単に統計的な代表として適切に機能するような考え方ベクトルを有する(つまり有権者の考え方ベクトルの平均に近いような)候補者が選ばれるようにすることだけだからだ。




<移転前のコメント群>

○ 無題 通りすがりさん
2chに晒されてるが如何なものか。自演?(2006/04/04 12:46:46 AM)

○ Re: 無題 神戸 隆行さん
自演じゃないです。ここ数年3匹のネット・ストーカーに絡まれてますんで。もう削除依頼しても全然追いつかないので仕方なく放置しています。
(2chは書くのは簡単だけど、削除依頼は大変という少々スパマに有利なシステムだから。)
警察もこういうことではアテにはならないですし、弁護士も費用が安くない癖に詳しい人は少ないですからね。(2006/04/05 04:16:06 AM)

○ 仕事は? 心配してるものですさん
で、本当にまた失業したの?
たしかに名簿から名前が消えていたけど??(2006/04/17 07:49:41 PM)く

○ Re:仕事は?(03/19) 椎路ちひろさん
なんか本文と関係ないコメントが続いてますが:

-----
心配してるものですさん
>で、本当にまた失業したの?
>たしかに名簿から名前が消えていたけど??
-----

元々あそこの名簿には名前が出てるのがおかしかったので訂正してもらっただけです。失業はしてません。
少なくとも今のプロジェクトが終わるまでは(^^;(2006/04/18 02:14:15 AM)

2006/03/19 16:14 | Comments(0) | TrackBack() | 空論
メモ:法律とプログラミング
ちゃんとしたコメントは後で。取り敢えずメモ。

法律とプログラミング

http://hotwired.goo.ne.jp/original/shirata/060228/index.html


一般向けの解説なので仕方ないと思うが…:
プログラミングでは視点がミクロ過ぎだろうと思う。見通しよくやるにはシステ
ムとモデリングの観点が必要だと思う。かといって視点がミクロな割にはのサン
プルが法と論理プログラミングの関係だけというのもさびしい。それでも実際に
論理プログラミングで実験を行った例(寮の規則の論理プログラミング的”デ
バッグ”)が挙がっているのは若干興味深い。

多分、法を法の範囲でだけモデル化しようとすると論理プログラミングへ連想が
いくんだろうとは思うけど、将来的には社会をもう少し使いやすいオブジェクト
指向モデリングあたりの技法を利用してモデル化した上でその中に制約を記述す
るほうが見通しがよく、自然でもあろうと思う。

関連書籍:
・ビジネス・オブジェクト
・法経済学

あたり?

…楽天はおろかアマゾンでも古本にさえ私の持ってるこれらの本がひっかからな
いのはなぜだ…。




<移転前のコメント>

○ 削除しました 椎路ちひろさん
an_idleさんの投稿はどうもSPAM的宣伝であるように思いますので削除しました。
創価学会に限らず宗教全般について批判的な立場の私ではありますが、だからといって宗教を批判するのに中傷・誹謗やSPAMの物量でもって当たってしまっては根拠のなさに関して相手と同Lvに落ちる行為であり、尊敬できません。(2006/03/01 01:03:30 AM)

2006/03/19 07:24 | Comments(0) | TrackBack() | 空論
ソーシャル・ネットワーク: 色々検索してみますた
まぁ、因縁もあったことなので、いろいろMixi関連を検索してみました
実体験は4日間のMixiだけで他は知らないわけですが、日本ではMixiがメジャーだそうですね。招待制じゃないソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)もあるそうですが、そっちはよくわからないので、以下は主にMixiのような招待制のSNSについて。

「orkutやgreeやmixiは大成功はしないと思います。」http://www.secondserver.jp/blog/archives/000094.html

これは参加以前から私が言ってること(このブログではソーシャル・ネットワーキング の内容)ですね。紹介モデルによる信頼性の担保はコミュニティが大きくなるほど怪しくなるという問題です。上記のページではそこから商業的成功はどうかという話に進んでいます。その中の商業面の予測に私は概ね同意できるのですが、ただ私としてはもう一つは仮に商業が絡まなくてもSNSは拡大せざるを得ない宿命を背負っていてそれが実は規模拡大による品質低下と直接的に衝突するのではないかと以前から思っています。

それは一つにはコミュニティが淀んでしまわないためにはおそらく新しい血が必要でそのために恐らく新規会員がコンスタントに流入することが必要だろうということです。これはその昔ネットニュースが、そして最近では2chが新学期や長期休暇ごとに新規参入者のお陰で賑わうという現象と同じだろうと思います。

もう一つはは共感を呼びにくいような(つまり無理解な人物に謂われなく迫害されるチャンスも多い)ニッチな小規模コミュニティこそがソーシャル・ネットワーク・サービスのような保護の仕組みをまさに必要としているが、その一方で小規模コミュニティが成立するには広い範囲から薄くメンバを集めないといけない、つまり大規模化が必要ということにありましょう。

「コミュニケーションの可視化が起こす問題」 http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050730/popularperson

可視化(距離感なしで登録するかしないかの2値で表現されるなどの大幅な単純化をともなった)が誤解・錯覚を生むであろうという意見は私も先日書いたとおりです。

このことは参加するまで考えてみたことはなかったのですが、参加してみて行き当たった極めてネガティブな現象によって実感した問題です。今回Mixi参加2日目くらいに(ある特定のジャンルCで)「既存のムラ社会を乱さぬために表に出ず潜伏することを余儀なくされる」という事態に行き当たってしましました。これによって冷静な状態ならば自分の立ち位置・状況がわかって生きてる筈の私も冷静さをいささか失ってしまい感情的な反応として「息苦しさ」を覚えるなど、実際に可視化された交友関係から感情が影響を受けています。

これは人間は相手が単なるメディアであっても意識にすら上らないうちに社会的に反応してしまう生き物であるという研究(「人はなぜコンピューターを人間として扱うか―「メディアの等式」の心理学」)があり、それによれば社会的反応は理性に先立つもののようですから、私の覚えた「息苦しさ」は単に私の個人的な心理の問題ではなく自然な反応であったのかも知れず、だとすると私はなんとか立ち直りはしましたが、デジタル村八分は耳で聞く第一印象よりも実際に出会って受ける心理的ダメージが大きいものである可能性があるのかもしれません。

「mixiネタまとめ(1)」 http://www.geocities.jp/asc06083/mixi1.htm

これは私は考えてみていなかった側面なのですが、招待制に頼った場合のメンバーの偏りについての問題ですね。実際、今回は趣味Cのコミュニティがあらかた形成された頃にようやく私まで招待リレーが届いたわけですが、もし招待リレーのネットワークが違っていてこちらが早い時期に参加していれば、逆に相手のほうがイヤーな思いをしながら別コミュニティを立ち上げなければいけなくなった可能性はないとは言い切れませんでしたね。

このようなことはもしかすると、Mixiの存在を始めて知った頃から私がなんとなくボンヤリと感じていた「オープンでないことのいやらしさ」のような感情を生み出した根源かもしれません。非本質的な部分で差別されてるわけですからね。

しかしまぁ考えてみたら本人がどう努力しても入れない可能性があるっていうネット上のサービスも珍しいって言えば珍しいですね。

「現在のSNSが抱える問題のまとめ」http://www.mikuta.net/archives/000128.html

これもまとめですね、上記以外の問題点も挙がっています。例えば個人情報が公開されているが基礎は案外脆弱で犯罪に利用されるかも、とかSNS乱立(してるんですか?)問題とか。後者の問題は実際に発生しているならばインスタント・メッセンジャー乱立問題にも通じるものが…。
(ウチはMSNメッセンジャーですけどAOLとか、Yahooとか、メッセンジャーじゃないけどIRCとか早く相互乗り入れしてくんないですかね?技術的には問題ないみたいだし、相互乗り入れの協議は数年前に始まったって報道はあった筈なんですけどねぇ。)

2006/02/18 04:33 | Comments(0) | TrackBack() | 空論
単純化しすぎではないだろうか?
(「コラム: アキバ系とは 」を読んで)

何をかと言えばまずは表現というものをです。

芸術を意味するアートが技術をも意味するのは伊達ではありません。人間は長い歴史的スケールの時間を掛けた技術的な試行錯誤の果てに現在の2次元表現の技術を獲得してきました。
例えば今時のアキバで流行る2D表現「萌え絵」だって実は技術の塊です。
表現上の流行というものはあるとしても、その基礎は人間が線と色から現実の事物の記憶を再構成して脳内に現実には存在しない美やその他の観念を感じ取るという人の脳が備える情報処理プロセスを利用するということに変わりはありません。

そのように人間の情報処理プロセスの働きを利用すべく製作された女子キャラクターは現実の女性の特徴の影響を受けてはいますが異なる存在です。現実の女性は、現実というものはいつもそうであるように複雑な現象です。対して表現されたキャラクターは女性からその作者が魅力的であると考えた特徴を抽出し、ノイズを減らして作者の意図を表現するために設計され製作された存在です。
そこには技術と自然の違い、目的を持った人間の意図が介在したかどうかという違いがあります。自然は美しいものを生み出すことがありますが、超自然的あるいは宗教的な解釈でもしない限り、そこに意図や目的は認められません。
(もちろん現実の女性にも自己実現という意味で表現としての側面はありますが、描かれたキャラクタではなく生きている人間である以上は意図しない部分としての自然を切り捨ててしまうことはできないでしょう。)

そういった脳内プロセスの存在や、その意図的な利用ということを意識しているかどうかは別にしても、実際問題として作者は何かの観念を意図的に表現するために、どこにどのように線と色、明暗を配置すればよいか、さらにそれらを要素として構成された特徴を2Dに記号化するのか、3D的に描出するのか、そしてそれらの要素的特徴をどう組み合わせ、どう配置すればよいかということを決定する必要があります。それには多くの知識と技術、細かなノウハウが必要です。
3Dのフィギュアだってそうですし、小説、漫画、アニメ、コンピューターのエロゲだって皆そういった過去の技術の蓄積を利用して組み立てられているのです。

このように表現を作り出すことはそれ自身技術です。実際多くのアニヲタ、漫画ヲタ、ゲーヲタ等のヲタが2次創作や創作に手を染めています。つまり商品化や一般への公開には至らないまでも単なる消費者ではないことも多いのです。そしてさらに多くのヲタが実際に製作に至らないまでも少なくとも製作に憧れ(つまり欲求を)を抱いています。

またさらに話を進めればこれらの表現を鑑賞することもまた技術です。なぜなら大まかな印象だけでなく表現の細部に気づき味わい楽しむためにはいくらかの訓練が必要ですし、それを言語化して他人に語るには技術と知識も必要だからです。
表現が人間の脳内情報プロセスを利用するものであるため、あらゆる表現はそれ自身では完結せず、人間に鑑賞してもらう必要があるからです。

これは外国語の知識がなければ外国語の小説を鑑賞することができないとか、読解力が低いと楽しめる小説が少なくなるというのと似ています。クラシックを聞きに行って寝てしまうというのも同じでしょう。実際、例えば非ヲタなヒトビトはしばしばキャラクターを弁別する能力やコマ漫画のコマ割りを追う能力が低いという現象が見られます。

その理系ヲタとなんら変わりはないのです。ただジャンルが違うだけです。




<移転前に頂いていたコメント群>

Re:単純化しすぎではないだろうか?(02/04) MO(名前の長さに制限があるなんて!)さん
iwatam氏のゲストブックから飛んできました。

ちひろさんはなんか誤解しているような気がします。iwatam氏はアニメ・漫画といった文化そのものを否定していませんよ。大きく増大したアキバ系といわれる人達を分析している、と私は解釈しました。(2006/02/09 12:29:39 AM)

○ Re[1]:単純化しすぎではないだろうか?(02/04) 椎路ちひろさん
MO(名前の長さに制限があるなんて!)さん
>iwatam氏のゲストブックから飛んできました。

>ちひろさんはなんか誤解しているような気がします。iwatam氏はアニメ・漫画といった文化そのものを否定していませんよ。大きく増大したアキバ系といわれる人達を分析している、と私は解釈しました。

その分析の背景となっている部分に齟齬を感じたのです。まだ実はこの項目書き終えてませんで、まだ書き足りないことがあります。

・理系ヲタの心理がが本当に彼らと違うのかどうか?
・秋葉原から電子部品が消えたのは技術的な進歩の結果で必然ではないか

についてです。(2006/02/10 03:38:58 AM)

○ アキバ系という物言い K-Yさん
iwatam氏は『漢の不在』というコラムの中で、アニメの中でも『漢らしくない』ものはクソだと宣言しています。そもそも萌えとか言ってる連中は嫌いなのです。

そもそも嫌いなのですから、たとえそれがジャンルの違いに過ぎないとしたって、当然『自分の仲間』には入れないでしょう。それだけのことだと思いますよ。(2006/03/09 10:25:02 AM)

2006/02/04 22:06 | Comments(0) | TrackBack() | 空論

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