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2024/04/16 21:19 |
ゲームの苦労と楽しみと飽きること
とあるMMORPGの廃プレイヤーな人の日記を読んで思ったこと。
(私のところへ来ている嫌がらせが波及するといけないのでリンクもトラックバックもしませんが。)

「飽きる」ということは、問題を解決できないままで脳内の状態が「堂々巡り」している状態を回避すべき状態とみなし、一種の疲労として検知する脳内のメカニズムであるという仮説があります。(そのメカニズムは先天的でなく生後身につくようで、乳児は身体的疲労を伴わずに「飽きる」ということができないようです。)

同じタイプの慣れた作業の繰り返しは脳内でも同じ状態が反復することになりますが、それは「堂々巡り」と非常に脳内の状態(神経のネットワークの作動のパターン)が似ています。違いは「(心理的な)報酬」が感じられるかどうかということになります。つまるところ報酬があるのは良いハマリであり、報酬が感じ取れなくなった状態での反復は悪いハマリということになるでしょう。(もしこのあたりの話題に興味がある方には「心の社会」(マービン・ミンスキー著)をオススメしておきます。)

しかし良いハマリも悪いハマリも脳内の状態はそっくりなので、報酬の評価に関するわずかな条件の変化で容易に良いハマリから悪いハマリに移行し得ると考えられます。そして報酬の評価はプレイヤーの持つほかの価値観との勢力バランスの変化で簡単に変化し得ます。なので別に飽きることは単に特別な形の疲労感覚であってそれそのものは別に悪いことではないでしょう。

ところで、ゲームと苦労については、もともとゲームなんてのは受けなくていい試練をわざわざ克服して喜ぶという側面があると思います。そういう意味で「止めてもいいんじゃよ」な苦労はむしろその本質ではないかと思いますです。そして人工的な試練なので難易度は心理的な報酬とバランスを取る形で調整されることになります。

苦労というのは執着から生まれるとお釈迦様も言ってたらしいですが、魅力的なビジュアルやキャラクターやストーリー、演出、そして勝利の達成感そのものによってゲーム内の報酬に対する執着をプレイヤーの精神に呼び起こし、この執着と人工的な難問の難易度との間で微妙なバランスを取ってプレイヤーが自発的に苦労を選ぶようにすることがゲームデザイン上の課題ということになります。(プレイヤーが苦労を大きいものとして受け止めたということはそれだけ執着、ひいては魅力が大きかったということでもあるでしょう。)ただ難しいのは心理的な報酬の評価には個人的なバラツキがあり、また個人でも時と場合によって変動するということです。

というわけなのでゲーム、特に長期にわたって遊ばれるゲームについてはむしろプレイ中適度に飽きられプレイが中断されることは避けがたく、むしろそれを想定するのは当然ということになります。となれば当然、飽きたと感じたことはそれだけでそのゲームを貶めることにはならないと思います。

つまるところゲームの楽しみに苦労はつきものであり、苦労があれば「飽きる」という形で疲労もある。特に廃プレイには大きな楽しみと大きな疲労があり、ある微妙な点を越えた瞬間に一気に疲労が自覚されるというのは自然で、むしろ健康的な反応なんだと思います。(・・・同じゲームでも疲労が癒えたらまたやってみると新たな喜びがあるかもしれないですよ?)
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2007/05/27 09:36 | Comments(0) | TrackBack() | ゲーム

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