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2024/04/24 21:34 |
法律知識と議員の資質、官僚の資質
白田秀彰の「現実デバッグ」
No. 3 法律作成者
http://wiredvision.jp/blog/shirata2/200711/200711211100.html


テーマ的には私としては興味深いと思うのだが、ここまで読んできてなぜか底の浅い感じがしてしまう。なんでだろう?…と、考えてみるとプログラム開発話をイキナリにコーディングとそのスキルについての話題から始めてしまっているために問題が矮小化されてしまっているからでないかという気がする。

というのも昨今の情報システム開発プロセスではコーディングのフェーズそのものより要求仕様の洗い出し、優先順位付け、既存コード再利用の検討などの分析フェーズの方がむしろ高難度の課題であり重きを置く必要があるとされていたりするのである。

当然、社会システムも目的・意図があって設計されるものであって、目的や意図に基づく仕様を洗い出すにはシステムに関するステーク・ホルダとなる人々を見つけ出してその要求を集約して優先順位を出すという作業がコーディングに先立つことになる筈。

社会システムの中でも国、法律の場合はユーザー/クライアントという重要なステーク・ホルダ群として(実態はどうあれ本来は)国民が居るわけであり、国会議員はそれらユーザ/クライアント代表という立場にある。

実際選挙という票数を数えるだけのシンプルな数学的手段を持つ手続きが保証するのは、選ばれた人間の法的知識のようなスキルではなく、統計的な標本として母集団を代表する傾向のある人間が選ばれる可能性が高いことであろう。(そういう意味では母集団からズレの大きいような相対的に「有能」な人物であるよりは母集団の意見をよく反映するようなある種「平凡」な人物であることがむしろ国会議員の資質といえるかもしれない。このあたり選挙の数学的な性質については以前にも書いた。)

そして現実の情報システムでもユーザー/クライアントは一般にプログラミング・スキルを持たないわけで、国会議員が必ずしも法の専門家ではないのもそこいら辺に理由があると思う。リンク先のブログでは米国の議会に法律家が多い例が上がっているが、米国でも別に議員が法律家であることを要請してはいない筈だし、そもそも米国は人口当たりの法律家の数が日本とは桁違いに多いのだから議員に法律家が多くてもそれほど不思議ではない。

(昔読んだことを確認するためちょっと検索してみたが、ちゃんとした統計は見つけられなかった。ネット上の数字には幅があるが10倍とも20倍とも言われているようだ。ところでちゃんと数えてみたわけではなく体感だが、これは向こう産のドラマの出演者に弁護士が多いことにも現れているように思う。日本で弁護士が登場したらまず法律家としての役どころだが、向こうではせいぜいちょっとしたキャラ付けくらいの比重で弁護士が気楽に出てくる。これは米国の生活において弁護士などの法律家が日本よりは格段にありふれた職業であることの反映であるように思う。)

そして米国は時に訴訟社会と言われるほどに社会システムにおける裁判という昨日が果たす役割が重く、また日本に比べると裁判は迅速で判例もよく変わる、つまり法律は裁判によって頻繁に修正され完成度が高められていく(後述の省令や行政指導とは違う形だが、元々裁判の判決も限定された立法行為の性質を持つ)という傾向が強い。言い換えると日本ほど法の安定性が強くない。そのため立法時に一気に細部まで完成度が高いことは日本ほどには求められていない。このため恐らく議員はある意味「気楽に」法律が作れる側面があると思われる。(長期自民党政権の日本とは異なり米国は議会や大統領選で現実に政権交代を実現してきている分、政策の違いを反映した法の改廃自身が日本より盛んだろうという推測もできる。)

また公務員試験を根拠に官僚を法律の専門家としているが、公務員の仕事は本来立法ではなく行政、つまり主に執行である。法律で記述されるような公的かつ社会的な「情報システム」について言えば、それはプログラマというよりは運用担当者、例えばオペレーターやアドミニストレータに近い筈。実際公務員試験は法的知識を一部に含むとはいえ、司法試験のように法的知識を主に問うものではないように思う。

確かに現実のシステム管理者など運用担当者は運用に当たって設定ファイルやスクリプトを書くなどプログラマ的な仕事をいくらかこなすし、システムの細部の挙動についてのノウハウを蓄えている人々ではあり、クライアントほどではないとしてもそれなりに重要なステーク・ホルダではある。そして省令や行政指導は限定的な立法行為でもあるわけでこれは設定ファイルやスクリプトを書くなど限定的なプログラミング行為と対応するだろう。とはいえ、それは部分的な修正が中心であり、必ずしも全体的なバランスを見通してシステムを設計するような行動ではなく、そういう仕事に習熟していたとしてもそれはシステム全体を設計するスキルには必ずしも繋がらない。

そして日本では近代以降、歴史的に法をフルスクラッチで開発することは少なく、時の先進国から丸ごと「輸入」して部分的に修正、つまりローカライズしたり、パッチを当てて利用するケースが多かったようだ(現在の憲法にしてからがそうだという改憲派の主張もあるし、明治憲法はプロイセンを範に取り…というのは歴史の教科書には大概書かれているんじゃないかと思う。)。こうやってシステムを構築した場合プログラマではなく運用担当者の重要性が相対的に高くなることは想像に難くなく、それが現在日本の官僚が立法で相対的に大きな役割を担っていることの理由の一つではないかと思える。(そして日本の大学の法学の授業が法解釈学中心であり、立法といえばいろいろひっくるめて「法哲学」とされてしまう傾向の原因でもあるのだろう。そしてそんな法学部の卒業生たちが公務員の中心勢力であるのだ。)

そして日本では時々忘れ去られているらしいが、情報システムの開発にはクライアントが業者に依頼してしまえば後はできるのを待つばかりという一方的なものではなく、問題領域の専門家である顧客と解決手段の専門家であるデベロッパの共同作業という側面がある。

これは社会システムについても言えるはずで、そうだとすれば法は議会や官僚が勝手に設計するものでなく社会全体の共同作業で作り上げられていくものであろう。実際、国民の多くを占めるのは職業人であるわけで、皆それぞれの職業に関する分野に関しては多かれ少なかれプロ、専門家である筈なのだ。そしてこの「社会全体で共同して社会システムの設計を行う」という問題解決を行うための社会的な仕組みの一つが、<自由な試行錯誤による並列的な解の探索-言論による世論形成(解の交換、評価)-選挙による集計>からなる民主主義的諸制度ということになるのではなかろうか。
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2007/11/28 02:44 | Comments(3) | TrackBack() | 空論
化粧品業界って・・・
ひょっとして情報を整理する気がないのかなぁ。

さきほど資生堂のまつげ美容液を知り合いが薦めてたのを思い出してちょいとGoogle。
しかしこれが出てくるのはオークションサイトやディスカウント・ショップのサイトばっかり。
その上そのオークションサイトがまた混沌と説明も無く商品が並んでる。

たまにHowToサイトや比較サイトがあっても物凄い勢いで特定の商品を宣伝してたり、断片的だったり、主観的だったりでやっぱり混沌。

資生堂の公式サイトでもトップの分類がブランド別でどのブランドに属してるかわからないとたどり着けない。
サイト内検索もあるけどこれがまた気が利かず、どうやら公式サイトでも商品名が事前に正確にわかってないとたどり着けない様子。サイトのつくりは一見おサレだけど、商品情報が探しづらく、つくづくイメージ優先っぽい。

買う前に商品の説明が見たいのに、公式にせよ非公式にせよそういう情報は存在しないか、みつけるのがすごく難しい様子。
まぁなんていうかこの業界、理性とは対極、ムードだけで商売してるんだろうかなぁという印象が濃厚に。

2007/10/31 02:37 | Comments(3) | TrackBack() | 空論
大卒研究職社員の資質ですって?
大卒研究職社員の資質「期待上回る」は1% 文科省調査www.asahi.com/science/update/1027/TKY200710270129.html

なんて見出しで書かれるとまるでいかにも大学出の研究員の品質が悪いようだが。

----上記記事からの引用ここから
いずれも「ほぼ期待どおり」は60%前後。「期待を下回る」とした割合は、学歴・年齢が高いほど低く、修士では約26%、博士約15%、ポスドク約8%だった。
----ここまで。

一般の雇用を考えたとき、「期待通り」が6割もいるなら立派なものじゃないだろうか?
(大学、大学院もピンキリだってことを考えれば余計にそうだろう。)
その上、学歴上がるほど「期待を下回る」が低いってことは今でも大学が研究者養成機関としてはおおむね期待通り機能しているってことじゃないか。特に国公立大学の独法化などとあいまって高等教育の予算が削られまくっている現状(そのせいで火山観測網の維持が危機に瀕しているという報道もあった)を考えるとむしろよくやってると思うけどどうなんでしょうかね。

国はオーバードクター問題を需要不足ではなく、当人の能力不足という線で解決したいようだが(先日の報道では博士課程出が企業で役に立たないので就業体験させる計画なんだそうな。)、その政府側発表に朝日新聞も何の疑問もなく乗ってこういう誤解を招く見出しをつけて流しているということなのか?(こういうのが「記者クラブ」制度の弊害ってやつなんですかね?)

2007/10/27 23:06 | Comments(0) | TrackBack() | 空論
映画「SiCKO」感想 : 企業は何のためにあるか
華氏9.11のマイケル・ムーア監督最新作、映画「SiCKOhttp://sicko.gyao.jp/を見てきました。無保険なため傷口を自分で縫う男性というインパクトのあるシーンからコミカルに描写しつつも深刻なアメリカの医療・保険制度の問題点が描かれた映画でした。今のところはアメリカほど極端でないまでも日本の医療・保険制度は確実にそっち向かってるなぁという感じがしましてなかなか身につまされる内容でした。(国公立大学の事実上の私学化や保育園、老人福祉の公から民間への闇雲な切り替えなど医療制度以外の面ではすでにかなりアメリカ化は進行しているわけですしね。)

このようなことが進行する背景として企業が利潤追求に邁進するなかで額面上利益を上げるが企業の提供するサービス自身の内容が雇用者の扱いともども劣化し、それを糊塗するために上げた利益をつぎ込んで政治力を駆使するというパターンは日本でも昨今よく見られるだけに本当に他所事ではないです。これはもう結局企業は何のために存在するのかという問題ですね。

 ところで、企業は利潤を追求するものだと、条件を深く吟味することなく企業の利己的な行動を無条件で正当化する文脈でさも当然といった風に言われることがあります。が、私はそれに非常な違和感を覚えます。それは工学的な機械装置の例で言えば:

 エンジンは燃料を燃やすために存在している。

…と言われたような違和感です。もちろんエンジンは動力を得ることを目的として人為的に設計された装置であり、燃料を燃やすこと自身が目的な筈はありません。燃料は必要に応じて仕方なく燃やされ(消費され)るものです。もちろん資源を有効に利用するために効率の良いエンジンが求められていますが、それはあくまでも動力を得るという第一の目的をつつがなく行うことが大前提である筈です。(元来利潤という言葉にはこのように目的あっての効率という観点があると思います。しかし、企業活動を擁護する文脈ではそのあたりが忘れられているように思うのです。 )

このことを企業について言うなら、企業とは社会から求められたサービスを提供することを目的に人為的に設計された社会的な「装置」であり、利潤の追求とは求められたサービスを提供する上での消費エネルギーを減らす努力ということであるはずです。当然、いくら燃費が向上したといわれても出力であるサービスが劣化するのは本末転倒でしょう。即ちSiCKOで出てくる保険会社のように、あるいは昨今話題となった品質を偽装する食品会社、安全性を軽視するメーカー、手を抜くメンテナンス会社などのように見かけ上の「利潤」のために顧客向けのサービスが直接劣化するのは明らかに論外です。(そもそもそれでは効率が向上しているとはいえません。)

 さらにサービスの劣化についていえば、それは直接的に起こるとは限りません。例えばアンフェアな雇用や待遇により人材の扱いをおろそかにすれば、必然的にアウトプットであるサービス品質は低下します。これは燃費向上の軽量化で材料をケチりすぎて故障してしまい結局安定した稼動ができなくなり出力が落ちてしまうことに喩えられます。手段を選ばず効率を無理やり搾り出せばいいというものではないのです。

SiCKOの例でも保険会社側で加入拒否、治療費支出の拒否査定や支払い拒否にかかわった何人かの労働者たちはどうも反社会的な行為の自覚からあまり楽しくは仕事をしていなかったようです。 そもそも生物学的に見れば当然のことですが、人間は労働するために生きているのではないし、義務感で生きているわけでもないです。そのためその種の強制力を振りかざされて嫌々(SiCKOの例の保険会社関係者に見るようにいくらノルマで追い立てられ高給を餌にされてもやはり反社会的とわかっている行為は嫌な物なのでしょう。)仕事しても効率があがることはありえません。逆に仕事になんらかの精神的な価値(誇りや楽しみ、達成感といったものを)見出したときには強制されなくても、時として多少シンドくてさえも努力してしまうわけです。

つまりサービスを提供することを目的とした「装置」である企業はまず第一にサービスの提供とその品質の向上を目指すべきだと言えると思うのです。企業規模の拡大や利潤の追求はその大前提を満足したうえでの2次的な目標であるべきではないかということです。そしてそのサービス品質の向上は従業員を脅して追い立てても十分には達成できないであろうことです。

 以下余談:
 時として仕事の価値が金銭価値に直結するヒトもいるでしょうが案外とそういうヒトは多くないように個人的には感じています。特にマットウな仕事をしたと思われる人々の間ではそう感じられます。 そうなる理由はまっとうな仕事というのは金銭的な価値に直結するものではないからかも知れません。金銭というのは資源配分と強い結びつきがありますが、それなりにいい仕事を遂行するのに必要な資源というものがあるとしても資源を投じれば投じるほどよくなるとは限らないという意味で、いい仕事が資源配分量と=ではないということなのでしょう。

2007/09/17 03:28 | Comments(0) | TrackBack() | 空論
「求職中」マーク 
カード会社からの「負け組み判定w」でちょい凹んでるところにこんなニュース

就職難博士に「求職中」マーク 応用物理学会が考案
http://www.asahi.com/life/update/0728/TKY200707280449.html

他の学会も追随するかな?w
「求職中」だけでなく「契約残り~ヶ月」って表示もしないとねw
(ぶっちゃけ無職期間中に発表に行ったとき本気でプレゼンテーション資料に「求職中」スライド入れておこうかと思ったこともあったり。)

記事中で

「博士課程の入学者は国の大学院生倍増化計画を受けて90年度の7813人から急増。最近も1万7000人台が続いている。これに対し、博士課程を修了した人の就職率は6割程度にとどまっている。任期付き研究職の数も1万5000人を超え、その高齢化も問題になっている。」

ともあって、需要不足による非自発的失業(「不況のメカニズム」)のいい実例がここにも。(この状況の原因をよもや、就労意欲がないとか能力がないとか言わないよね?)

さらにこの博士課程出のかなりの部分は歴史的な事情からいわゆる理系だったりもするわけで、こんな博士課程出は将来設計が立たないのが当たり前って実態で技術立国を目指すって言われたら片腹痛いよなー。もう何十年もオーバードクター問題が言われてきたのに無策のままできたんだから、昨今の理系離れは当然だよね。(平均の生涯賃金が理系と文系で1億円違うって調査結果もあったしね。)

なんて状況の中、今年3月ごろに文科省からウチの研究所へ「流動性をもっと高めるにはどうしたらいいか?」なんてアンケートが回ってきて研究員を暗然とさせていたり…。なにやら文科省としてはさらに下っ端研究員の所得を不安定化して切り詰めたいらしいです。

もはやウチらに至っては何年ですらなく、何ヶ月なんて単位まで契約期間が細切れになって流動化してるってのにさらに流動化って、文科省の目指すは研究員の日雇い化か?!あるいは個人請負化か!?w

2007/07/30 20:06 | Comments(0) | TrackBack() | 空論

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